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住職のお話

『飛び地』

当山満願寺の所在地は、いわゆる「飛び地」である。
まわりを宝塚市にかこまれて、当山の寺域(境内)とそのむかし寺領(田畑)であった部分が川西市の飛び地ということになる。 なぜ飛び地ができたか? 
そのいきさつは? というのが、よくきかれる質問で何度かメディアによる取材も受けた。 いまや、浮世を離れた身の和尚としては、飛び地などドーデモ良い問題というのが正直な気持ちなのだが、そこは一応まじめに歴史的かつ地理的に経緯などをお応えすることにしている。
そのむかし、当地は摂津の国、多田の庄、満願寺であった。 「多田源氏の祈願所」とも謳っている当山としては、多田村ないし多田神社との因縁も浅からず、戦後間もない町村合併に際しては、多田村本村に準じて川西市への編入となった。
それは解るのだが、多田村本村と当地とのあいだに宝塚市に属する土地が入り込んでいるのは、どうしたわけか。現在宝塚市域になっている当山周辺は昔は全部山林(やま)だった。遠く西の方の切畑村が所有する長尾山山系の東のはずれがこの山林だったのだが、この山地が西谷村切畑長尾山を経て、現在に至るまでには、それこそいろいろな経緯があった。
まず明治期には「長尾山訴訟事件」があった。 くわしくは、触れることができないが、当山にも事件のてんまつを記した「記録抄本」なるものが1部伝えられている。あるいは郷土史の記述によると、この訴訟の判決の結果、対象になった山地の分割所有者となった麓の村々と行政上の管轄区域との間に乖離がみられることになったというのが、どうやら話の筋(すじ)らしい。
当時、山地は地番もはっきりせぬ文字通り「一山いくら」の時代であり、現在の高級住宅地を抱えた丘陵地帯とは同一場所とは信じ難いほどの変遷があったのである。
昭和初年、日本で最初の無軌道電車が通うことになった当地は、すでに多田村満願寺として阪急電鉄花屋敷から都人士の訪れる景勝の地であった。 先述の町村合併は当地を飛び地として生み出したが、昨今はやりの自治体合併話が進展、成就すれば、(川西市と宝塚市も合併の対象となっている)名称はどうであれ、「飛び地」問題は解消される。と同時に、話題の一つは失われ、このような文章も書けなくなる。
満願寺住職 若田等慧